2021年9月30日木曜日

表と裏の顔が作れない。。。



優しい目で人を見ること。

忘れがち。

なんだか、クサクサしているのは、私だけじゃない。

というか、私はなにもクサクサする理由がないのに。


もともとの心が冷たいのかな。

冷たい人だと自分でも前から自覚している。


忘れない出来事としては、

高校の部活の話し合いの場でのこと。

私は当時高2かな。

同級生の男子が部活を辞めたいという。

理由は何だったか忘れたが。

その際に部員全員で話し合いとなった。

今思えば、なんで??と思うのだが。。。


彼が退部をすることについて、一人一人意見を言うことになり。

私は

「辞めたいなら辞めてもいいと思う。残念だけど」

というようなことを言った。

だって辞めたいんでしょ、無理にとどめたら逆に彼を苦しめるだろうから。

そう思ってのことだけど、私には当時発言する力が無く、緊張感(人前で発言するだけで)のほうがだいぶ大きかった記憶がある。


その後。順番に発言していく中で、一人の女性の先輩が

「さっき、辞めたらいいって意見があったけど、それは冷たいと思います」

と言われた。

私は結局最後にもう一度発言させてもらい、

さっきはやめてもいいと言ったが、やめてほしいわけじゃない。

と弁解したのだった。。。


この出来事はショックとして記憶に残っている。


多分、私の意見は私の意見で間違っていないし、否定されるものではないはず。

それを、否定して私の性格まで勝手に決めつけた先輩のほうが断然おかしい。と今ならわかる。


が、その当時の私は、

・冷たい人と言われた

・彼が辞めることを何とも思っていないと思われている

・先輩から言われた

・嫌われてしまうかもしれない


そんな思いが巡っていたと思う。


結局彼は、部活をそのまますぐやめた。


この話し合い自体がまずもっておかしいのに。

私の時代は、仲間が辞めるなんて!引き止めなきゃ!彼に辞めてほしくないよ!

という熱い時代。

というか、大所帯の部活で、同じセクションにいない人にとっては

彼がいてもいなくても、部活に支障はないし、

私も同級生とはいえ。ほぼ会話したことないし。


そんな状況でも、幼児教育の中でいじめはいけない、とか、

ひとにやさしく、とか、仲間は大切に、とかの想いがねじれた形で現れたのが

この話し合いだったような気がする。


その後私は大学時代も社会人時代も、

一見クールだけど優しくて面白いね。

と言われることが多い。

クールに見えるのは、上がり目のせいだと思っている。

人見知りで自分から話しかけないから、親しみやすくないキャラだから、だと思う。


それで、良かったと思う。

苦手な人からも親しげに話しかけられたら、私はつらい。

知っている仲間だけに、私のことをわかってもらえればいい。

私が好きな人に好きになってもらいたい。


それだけなのだ。

もういい年を取って、そんな感じに生きている。

そんな環境にいたから。そうならざるを得なかったからかもしれない。

他の生き方もできたかもしれない。

でもまぁ、いいじゃないか。

月一のお楽しみになりつつある。
1000円払うなら、スーパーの高級すしより、お店で食べる新鮮な寿司がいい。




2021年9月27日月曜日

どうとらえるかで、結果も変わる。

 先日、イベントを開催した。

私は主催側。


緊急事態宣言が発令中だが、国の基準にのっとり、

換気や消毒などを気を付け、人が密にならないようにし、

不要不急ではなく、日常の必需品を買うことと同じ行為であり、

個店商店への経済支援となる急務でもある。

私はそう考えている。


イベント、と一言で言うと、

わいわい楽しむための、人が群がり、遊ぶためのもの。

的に思われがちだが。

ひとくくりで言わないでほしい。


この時思ったのが、ネーミングと背後にいる組織。


イベント。というと、そういうにぎやかしで、今は不必要だと思われてしまうが、

「マルシェ」「飲食店組合主催」「ワンデイショップ開店」「経済支援マルシェ 後援:経済産業省」

とか??


つまりは、緊急事態宣言中でも開催が認められるものであるように見えること。

というか、実際混雑もしなければ感染の危険も低いわけで、

名前や主催団体の規模などで判断されたりするのは遺憾。

人権侵害です。

視点をずらしてできないことに目を向けてそこだけをやり玉に挙げて中止させる。

中途半端に頭のいい人がやる手法だ。

目先のことしか考えていない、保身しか考えていない人だと思う。


まぁ、とにかく、マルシェを開催する場所を管理する行政から使用許可が下りなかった。

というか、禁止とは言えないわけで、やめてほしいと懇願された。


一旦は引き下がったが、理由が上記の通りで納得がいかないことばかり。

また同時期に、飲食店組合の救済のためのお弁当マルシェを狭い室内で行政が主宰で開催をしていた。

そちらは良くて、こちらはダメ、その意味を説明されたが到底矛盾していて納得できない。


とはいえ、行政といがみ合いたいわけじゃない。

向こう(担当者)も、自分一人の判断ではないからだ。

でも、せめて納得のいく返答が欲しかった。できないにしてもだ。

やってくれるな、その一手張りなのは、市民を馬鹿にしすぎている。

君の信念があるのならそれを貫いてよ。

そしたら私たちもその熱意に納得したかもしれない。(しないかもしれない)


とにかく。行政に絶望し、できる方法を考えた。

そして。あっさり可能となった。


開催することを、強固なまでにこだわりすぎていないか。

意固地になっていないか。

本当に開催することがいいことなのか。

正直悩んだ。


ただやれればいいのではない。

出店者の気持ち、来場者の気持ち、開催場所を提供してくれた企業さんの気持ち、

そして主催者である私たちの気持ちが、快いこと。

そこが大事。

反対されているのに無理やりやっている、という状況は快くない。

そうではない、未来を見据えて。どんな意味があってマルシェをやるのか。

それが伝わり理解してもらえた人たちと一緒に、開催したい。

その気持ちが通じていたように思えた。


当日は土砂降りだった。

通常なら中止もありえる。

せっかく来てもらったのに、出店は厳しいからと帰った出店者もいた。

きっと。マルシェ開催を認めなかった人から見たら、

それみたことか。強行してやるからこんな天候になったのではないか。

と思ったかもしれない。


自分もそう思いそうになった。

だがしかし、そう簡単に運命は流れない。

この雨のおかげで、出店を取りやめた人がいたおかげで。

最適で可能性が広がる結果となったのだ。


結果は、望んだ以上の形でもたらされたのだ。


いやぁ~ほんとすごかった。。。


とにかく、感謝しかない。

皆さんありがとうございました。


後日談としては、

行政さんとは、翌日会話しました。笑顔で。

素直な気持ちをお伝えし、お互いに良かったね、と。もう終わった話ですな。と。

立場が違うので意見も違う。

そこを尊重し合えばいいだけのこと。

無理に一緒に活動しなくていいのです。

そうすればかわいく見えるものです。(笑)

このスーパーの社長が素敵すぎる。自分もこういう姿勢でありたい。






2021年9月24日金曜日

腑に落ちる言葉が現れた。

 「あきらめきれない奴がこの社会を作ってるんだ。」


そんな言葉を知り合いのSNS投稿で見つけた。

とても心に響いた。

まさに今、あきらめずにやっていることがあるからだ。


また、このセリフを検索にかけたときに出てきたある記事があり。

そこには、

「多くの社会起業家を見てきて感じたことは、

優秀な奴が社会を作っているのではなくて、あきらめない、あきらめきれない奴が作っているんだ」

と。


自分は何をしたいのか、それはなぜなのか。

これは永遠のテーマで。そのために生きているはず。

それを自覚して動ける人が社会を変えていくのではないかなと。


私はそんな活動に、関わっている自覚が生まれた。


●地域(快適に暮らすための環境と人とのつながり、その未来)のこと。

●環境のこと(循環型の環境、つまりは衣食住すべてにかかわる)。

●未来を担う子どもを育てる母となった女性の肉体的精神的支援のこと。


その3つも結局つながりあっている。

それもうまく明文化して形にしたい想いがある。

私は文章と写真で、これらを伝え発信したいんだ。


ずっと今まで、少しずつかかわってきて。

こうして3つだと言えるほどの活動になってきて。

これもあきらめきれずに想い動いてきたからだろう。


自分一人の思いや活動は小さいものだったけれど、

それでも継続してきたことで、今の自分があると信じている。


あきらめそうになったとき、物理的に諦められない状況になったときもあった。

今思えば、それは必要だからあきらめない状況に追いやられたような気もする。

それがあるから今がある。おもしろすぎるだろ。


流れに逆らわず。思いのままに。できる限り。

さらに考えて考えて。私の場合はこうして文字にして。

動いていきたい。

このブログも閲覧者0でもこんなに続けているのだが。
駄文過ぎて。。。
想いを綴るだけなのであきらめずに綴りたい。










2021年9月22日水曜日

写真と文字とを発信すること。

 特に重い気持ちはなく、

気軽に写メしてコメントをインスタに上げる。


でも、たまにしか会わない人から、

「インスタ見てます!あの写真を見るとビールを飲みなくなります!」

なんて言ってもらえると、嬉しい反面、

酔った勢いで変な写真は載せられないし、

家のごちゃっとした写真も載せたくないな、と思う。

つまりは、反省していますってことです。。。


でも、ビールの写真は別に自慢でもなんでもなく、

自分の好きなもの、を表現し発信しているだけのこと。

いわゆる「リア充」(死語?)をもっと上げている人はいるわけで。

親しみやすい人だと思われたり、

あの人なら飲み会に誘ってもいいだろうな、って思ってもらえると嬉しいなという下心もあるわけで。


そんなものかな、SNS発信なんて。

もちろん仕事にしている人もいるわけだが。

大事なことでもあるけれども。インスタからしか情報が得られない店舗などもあるわけで。


だからこそ、丁寧な発信を心がけよう、と思うのでした。。。

「孤独のグルメ」作者・久住さんが飲んだというマルエフ。
発売当日に買ったのは自慢したかった。わかる人少ないが。


形に残す、とは。

 もういい年齢になり、

今まで自分がなにをしてきたのか。

大したことはしていないことは間違いないが、

想いの変化と不変化について、時間を作って振り返るのもいいかもしれない。


そして、何か形に残すということも、

今後いいのかもしれない、と、ある人の話を聞いて思った。


今、取り組んでいることは、

昨年の今頃では考えてもしていないこと。

昨年の今頃取り組んでいたことは、

3年前の今頃には考えもしていないこと。


本当にそうである。


しかし、

自分の中にある芯の部分は、変わっていない。

それどころか、妄想していたなりたい自分に近づいている気すらする。

その、方法は予想もしていないけれど。


そんなちっぽけな自分ですら、そういう人生を歩んでいるのだ。

みんなの人生も、自分なりにいろんなことがあったはず。


今は自費出版で本を出すことだって安易なもの。

動画にして残すことも、世界中に広めることも(広がるかは別)可能。


そして。このブログも、インターネットを通じて世界中で見える。(見られるかは別)


やってきたことの記録、その時に感じたこと、忘れたくないこと、など。

形に残すことはいいのかもしれない。

毎朝のコーヒーも、いい記録なるのかもしれない。
撮影したいと思うと、少し小ぎれいにしたくなるのも良き。



2021年9月17日金曜日

今後の見立て

 先日、長いお付き合いになるセラピストさんのところで

身体のメンテナンス(今回は珍しくフェイスケア)と、

毎回お願いしている、タロット占いをお願いした。


フェイスケアは、小顔が売りだという彼女らしく、

全身を使って顔を小さくする技を使ってくれた。

癒し効果もさることながら、

凝り固まった部分をぐいぐい押すのではなく、

全身のリンパの流れを良くして、

酸素量を増やして血行も良くして、

結果、顔がリフトアップし、小顔になるという。


実際に最初と最後の写真を撮影してみると、全然違うのだ。

ビックリ。


で、備忘録として記したいのは、タロット占いのこと。

自分で引いているのに。驚くような結果がいつも出る。


今回は、今の仕事や活動について。

3枚引いた。

・自分が輝くこと、今輝いている、輝いていい

・やりたいことをやっていい。やればいい。やれている。

・人の声を聴きすぎて自分はどうしたらいいかがわからなくなったら、自分の胸に手を当てて聞いてみる。一人時間を作る。


ということだった。

現在の状況は私にとって大丈夫である、という結果が出て納得だった。


さらに2枚引くと、

・ワクワクすることしかない

・自分を謙遜し過ぎている


これからは自分がワクワクして楽しいことばかりが起きるだろうし、

何事も楽しみを持って取り組めるだろう、ということでもあった。

ただ、もう一枚の、自分を低く見過ぎている、謙遜し過ぎているというのも納得。

「私なんかがそんな」「まだまだ私なんかとても」とか、言う謙遜。

自分はそれが正しい想いであると思い込んでいる。


自分が何か立派なことを成し遂げる自信があるとか、

私ってすごい。なんて、とてもじゃないけどおこがましすぎて言えない。

し、実際そうではないから、まだまだ自分なんて、というのが正解だと本心で思っている。

ただ、それが度を過ぎると、せっかくのチャンスや、人の好意をないがしろにしてしまう可能性もある。


今の自分は、今までやってきたことの集大成。いつまでもそれが付きまとう。

だからこそ、もし、頼まれごとは試されごととは言うけれど、

私の過去の経験を見込んでの依頼であるのなら、

それは胸を張って「やらせてください、誠心誠意、全力を尽くします」というだろう。


人との付き合いかた、まだまだ下手だが、

誰かのために動きたいと思う癖はなかなか治らないし、それが自分の良さなのかもしれない。

動ける体力とどん欲に学ぶ気持ち(だけじゃなく実際に動く)は

常に鍛えていたい。


頑張っている人や、肩の力が抜けていて人のために動いたり、
やりたいことをやっている人は応援したい。勝手に。





2021年9月14日火曜日

笑いを欲している。

 笑うことが免疫を上げるという。

いろんな笑いがあるとは思うが、単純でくだらないくらいがいいのかもしれない。


今日は職場で、くだらないけど大爆笑した。


日々気分が落ち込むような出来事を目にしたり耳にしたりすることが多いが、

そういうことと切り離されるような、

くだらない笑えることって、実はとても大事だと思っている。


これも、人間にしかできない技なのだと思う。

そしてそれが、気分や体調にも影響があるというのも人間らしさだ。


テレビは広告会社の言いなりなので、見ていてもつまらない。

特にワイドショーは最悪だ。


だが、最近朝の情報番組で相当くだらない番組を見つけた。

朝から、出演者の好きなものや好きなことを紹介しているのだが、

きっとそれが、広告会社のためにもなっている部分もあるのだろうが、

視聴者が楽しめるものを提供していると感じた。


そういうもので十分だ。


楽しみを自分から見出す能力も欲しいところ。

ワクワクすることしか、これからはやりたくないな。

なんでもワクワクに結びつけることがきっとできるだろう。

コーヒーが好きだから毎日飲む。
豆で買えば、お店で買うよりも安いのだから、いい豆を買って楽しんでいる。



感じて動くのが人。

人は、感動の生き物だと聞いたことがある。

感じて、動く、ということだ。


今はその感覚が鈍っている人が多いのだと思う。

それは何かの陰謀なのか?

人としての機能が、便利さと引き換えに消滅してきている。

それは私は恐怖に感じるのだが、

ありがたく受け入れる人が大多数なのだろうか。


何を大切にし何を指針とし、あなたは生きている?


人として生まれたからには、

私は、喜びを感じる人生を生きたいと思う。


喜びとは、便利さではなく、人とのコミュニケーションから生まれる。

辛いことも悲しいことも、すべては喜びに通じると思っている。

いろんなことを体験したくて生まれてきたのだと思っている。


生まれながらの悪人はいないという。

すべては自分で選択していくことで、人生が流れていく。

もちろん、自分の選択ではどうにもできない、選んでもいない人生をたどる人もいるだろう。


やさぐれたり絶望に陥ったりするだろう。

そこから何を自分は学ぶのか。得るのか。

得るものなどない、と諦めたらそこで試合終了だ。


大昔から続く悲劇「レ・ミゼラブル」がいつまでも人気を博すのも

人としての素晴らしい能力を表し、憧れがあるからではないだろうか。


もう少し、自分の能力を信じてほしい。

自分にも言い聞かせているわけだが。


何を怖れているのだ。

人は、人に恐れをなす。

そう決めているのは、自分なのだと。

すべては完ぺきで、すべては自分が選び作り出しているのだということに気づこう。





2021年9月9日木曜日

無題

矛盾に声を上げられない自分の非力さにイライラする。

感謝しているのと同時に、おかしな世の中に嫌気がさす。


いったいどうしたいのだ、日本。

どんな世の中にしたいのだ、世界。


いっそのこと、

地球が爆発してしまえばいい。


そんな自分勝手な気持ちに陥るほど、現状は非道に感じる。


希望はそこにあるのか?







2021年9月8日水曜日

自分の意志を持つと自然とその方向に流れる。

自分がどうなりたいか、と意識して過ごすと、

聞こえてくるもの、目に見えるものが、脳の仕組みで勝手に望むものが飛び込んでくる。


そうなりたい、と思っているのだから、

日々の選択の中で、望む方を選ぶようになり、

結果、望む状態にいる。ということがよくある。

というか、当然のこと。


過去を振り返る。ことも大事だが。

過去にしがみついたり、いつまでも過去を恨んでいては、

今幸せになれない。

今幸せであることが一番大事だと思う。

笑うことが大事。

感謝しなくちゃいけないから感謝する、時もあるだろう。

感情がついて行かない。頭では分かっている。

それでもいいんじゃない?


無理に流れを作り出そうとしなくても、

自然と望めばその流れができているもの。

これだけ長く生きていればそのくらいはわかるものかなと。


なんだか同じようなことをいつも考えがちだが、

それもまた私らしさかと。


とにかく。人間として生まれて面白い人生を送っていると思う。

まだまだ学びたいことも、遊びたいことも、世間からは外れているようなことでも、

(世間ってなんだ)

やってみたいこと、あるよね。

いいじゃないかいいじゃないか。


うまし。我ながら。



2021年9月2日木曜日

孤立は思考を狭めて自意識が薄くなるのではないか

コロナ禍の状況がかれこれ1年以上続いている。

幸いなことに、自分は感染も陽性反応も起きていない。

勤務先は、いろんな人が出入りするけれどそんなに大人数ではない。

緊急事態宣言の発令の一度目も二度目も、閉鎖することなく営業(開所)している。


人と関わることができる状況なのは、とてもありがたいと思っている。

確かに感染の危険性はあるかもしれない。

対策は取りつつ、仕事で人と関われることは本当に大事なことだと実感している。


現在妊娠中や産後間もない人たちにとって、

今の状況というのは本当に過酷な状況としか言えない。

産後は特に、ただでさえ、孤立してしまう環境なのだ。

コロナ禍でなくても、産後ウツという話題も近年よく聞くようになったくらい、

大人と会話をすることが無くなるため、思考がネガティブになったりイライラしたりするものなのだ。


それが今は、それに加えてコロナへの恐怖から、外出がままならない。

出ていけないことはないけれど、

安易に人が大勢いるような場所へ出かけることは、

母親として失格になるのではないか。

もし感染したらこの子はどうしよう。

この子にも感染させてしまったらどうしよう。


・・・一体、いつまで、どうやって暮らしたらいいのだろう。


悩み苦しんでいる現状があることを知った。


ちょっとした会話や、解決しないにしても悩みを聞いてもらえるだけで。

心がすっと楽になるはずなのに。

いろんな支援サービスはあれど、それを知るに至らない現状。

意識がコロナに向いているので、ただでさえ気づきにくい行政サービスなどは

さらに気づいてもらえない。

わかりにくいと利用しにくい。

とっつきにくい。めんどくさい。

だったら、家に引きこもってテレビや動画をずっと見ていればいい。

買い物は宅配サービスを頼む。

作るのが大変な時は近所のコンビニへ5分もしない滞在で買える。

人と会話しないまま母となっていく。

感覚がマヒしてもおかしくない。


一見普通の生活のように見えるかもしれない。

だが、仕事をしていない、親や友人と会えない、社会とつながっていないというのは。

精神的に不安定になるのは当然だ。

そういう環境にいないと、当事者の気持ちなどわからない。


そういう状況に気づいた産後経験者は一体何ができるのだろうか。

とにかく、考える。

声を聴く。

見てもらえるように情報を発信する。

今思いつくことはそんな程度だ。。。


やれることをやっていこうと思う。


そうはいっても人間腹が減る。というのも全員とは限らないのか。
美味しいものを食べたいという、人としての欲求が生まれることは当たり前だと思っていた。




これが普通になっていく。

 今の時代の最先端を進む人と出会った感覚があった。 やりたいことはぶれず、そのことを一番に考えている。 順番を考えたときに、この仕事をまずはやってみる。 限界を感じて次の職種へ。 目に留まったもの、人から声をかけてもらったもの、 読んだ本や出会った人からの影響で進んでみたもの、な...