2021年5月26日水曜日

新しい事業が始まる。

 ライターのお仕事は現在全くないのですが、

新しい事業がいよいよ開始となります。


ライターなど、自宅でも作業ができる職業の方(フリーランス、テレワーク)が、

自宅以外の場所を求めているときにぜひご利用していただきたい、

「コワーキングスペース」を運営します。

運営するといっても、私はいわゆる雇われ店長的な立場になると思います。


ここ3年くらい、クラウドソーシングのワーカーの体験をしライター業を目指そうと思えたのですが、

同時に、これから運営する場所の運営管理も体験させてもらっていました。


以前もコワーキングスペースとして営業していましたが、立ち位置があやふやで、

当時の事業の「拠点」としての使われ方のほうが意味合いとしては大きかったのかな。

また、クラウドソーシング事業部会の拠点というのか。


あまりコワーキングスペースとしての認知度を上げる活動をしてきませんでした。

(事業が終了と同時に閉鎖すると聞いていたので)


ですが、行政の意向で継続、さらにはシェアオフィス機能を付けた場所として運営をお願いしたいということでしたので、引き受けました。

とはいえ、一人では到底無理(私の力量的にも、収入的にも)。


今までの事業で組んでいたコンソーシアム会員の中から、NPO法人さんが引き受けてくれました。

私はそこの一員としてコワーキングスペースの運営をしていくこととなりました。


今後は、運営をしつつ、NPO法人さんのお仕事もお手伝いさせてもらう予定です。

もちろん、クラウドソーシングのワーカーとしてライターのお仕事があればもちろん引き受けていきます。


私の中では本職はライター、でありたいと思っています。

(ライターの仕事、今全く無いけどね。二度目)


ということで、名前を伏せる理由もないのですが、なんとなく自分の心の中がまだ落ち着かなく、こんな書き方になってしまい申し訳ないです。


頑張りますのでよろしくお願いします。

このチラシも私が作りました。便利な無料ツールがあるものだ。




2021年5月20日木曜日

頼まれごとは試されごと?取捨選択の狭間。

 前回書いた、自己肯定感と自意識過剰の話。

自己肯定感、ではなくて、自信過剰ですね。私が言いたかったのは。

自信過剰と自意識過剰は違う、と言いたかった。。。すみません。


で、自己肯定感についての話。


よく、「頼まれごとは試されごと」というのも耳にすることがある。

確かにそのとおりだと思う。

なので、頼まれたからなんでもやる、という意味ではない。

やるかどうかを試されているという意味もあると思う。


頼む側としたら、

応援する気持ちがあって、チャレンジしてみたらどう?とか、

あなたにぜひお願いしたい、という想いがあって頼むこともあれば、


この程度のものはこの人でいいや。

この人は何でもやってくれるからこれも頼んじゃえ。

という想いで頼む場合もあるだろう。


それを、自分が見極めて、やるかやらないかを選ぶということ。


何でもかんでも、「自分なんかに頼んでくれたんだから、やらないと申し訳ない」

という気持ちでやるのは、社会人一年目くらいで終わりにしたいものだ。

といいつつ、私はこういう気持ちを長年持ち続けてここまで来た。

自己肯定感が低いからだと思う。

こんな自分に声をかけてくれたのだから応えなくてはいけない。などね。


でも本当はそうではない。

本当に自分はそれをやりたいのか。

やったらどんな気持ちになるのか。

その後自分はどうしていきたいのか。

そこまで考えることができる、脳の余白が必要なんだろう。


やってみなけりゃわからない、が座右の銘の私としては、

とりあえずやってみる、ということがほとんどだ。

でも、「直感」でやりたいと思ったことは大体大丈夫だし、その後も面白い流れが生まれているから、いいのかもしれないね。


なんとなく、がビジネスではあまりよろしくないのかもしれないけど、

なんとなく、感じることってたいてい正解じゃないのかな。

ただ、断るのってパワーが要るよね。

他の理由をつけて断るのは楽なんだけど、ね。

まぁ、無理なものは無理、これは正直な気持ちなので、

やはり誠実に、お断りをするしかないのでしょうな。


ぼーーーっとゆっくりと、コーヒーをじんわり味わう時間の余裕を持ちたい。


2021年5月5日水曜日

自意識過剰と自己肯定感の低さ

自分のことを、どう思っているのかを考える時に、

「そんな私のことなんてどうでもいいです」

「どうせ私のことなど誰も気に留めていないし」

「大した事できないし、存在すら知られていないし」

など、自分を低く低く感じていることが多い。

なので、道で知っている人とすれ違っても、

「きっと私のことなど覚えていないだろう」

と、私は気づいていても、声をかけずにやり過ごすことが多い。


顔の広い人のことは当然誰もが知っているけれど、

そのそばにいるだけの人のことは、記憶にない。

自分だって、有名人のお付きの人の顔と名前など覚えていない。


これは、自己肯定感が低いようで、逆。

自意識過剰なのだ。


「私のことなんて誰も気にしていない」

と、自分のことを意識し過ぎている意識なのだ。

自分がどう見られているかを意識し過ぎているからこその現象だと私は思う。


誰も見ていない、と気にし過ぎているのだ。


意識は自分ではなく、相手に向けたら、こんな風にいちいち自分のことを意識しなくても済むのではないだろうか。


「この人に興味あるなぁ」

「この人は一体何が好きなんだろう」

「なぜここに来たんだろう」

と、相手に対しての「なぜ」という気持ちを持つと、いいのかもしれない。

このときに

「でも私なんかに話をしてくれないかも」

「私なんかが聞いてしまってもいいものだろうか」

と、自分に意識を向けてしまうと、それは自意識過剰だ。


今まで自意識過剰とは、

自分のことばかりを話したり、

自分はみんなから注目されている、

という意識が高い人のことをいうのだろうと思っていた。


自分のことをひけらかさない、それどころか控えめで誰にも気づかれない自分は、

自意識過剰とは対極にいる人だと思い込んでいた。(数年前に気づいたんですがね)


意識したいのは、自分のことではなく、自分の興味や好奇心かな。

そうすれば、相手へのなぜを素直に聞けるかもしれない。


whyは取材時に一番大事なこと。

自分の好奇心を大切に、楽しさを私は求めて生きたい。

人生を楽しむのだ。







これが普通になっていく。

 今の時代の最先端を進む人と出会った感覚があった。 やりたいことはぶれず、そのことを一番に考えている。 順番を考えたときに、この仕事をまずはやってみる。 限界を感じて次の職種へ。 目に留まったもの、人から声をかけてもらったもの、 読んだ本や出会った人からの影響で進んでみたもの、な...